これはルクス隊がソレーヌにて眠る少女アリシアを発見していた、その裏側で同時に進行していたもう一つの物語である。
ソレーヌの空では、アリシアが新たな人生を歩み始めようとしていた。
その頃、遥か東方に位置する科学国家・ノヴァリス連邦では、もう一人の少女が静かに目覚めようとしていた。
人類は神を超えた。
それがノヴァリス連邦という国家の建国以来、決して揺らぐことのない理念だった。
かつて世界は神託術という超常の力によって繁栄し、そして滅びかけた。
空に浮かぶ超大陸ルミナリア。
神託文明の象徴であった中心都市ソレーヌ。
その繁栄も、その崩壊も、人類が神と呼んだ力によってもたらされた。
ゆえにノヴァリス連邦は断じた。
神の力など必要ない。
世界を導くのは科学である。
人類は神に依存する時代を終え、自らの知恵で未来を築くべきだ、と。
その思想は徹底されていた。
神託術の使用は法律によって全面禁止。
教育機関では神託文明を旧時代の危険思想と教えられ、歴史書からもその名称は少しずつ姿を消していった。
今、この国で神託術という言葉を口にする者はいない。
いや、口にしてはならない。
それは遅れた国家が未だに信仰している非科学的な超常現象。
レグナリア共和国を始めとする多くの時代遅れの国家が使い続けている、過去の遺物。
ノヴァリス連邦の人々はそう教えられ、そう信じていた。
だから彼らは、その現象を決して神託術とは呼ばない。
正式名称・オラクル現象
未知のエネルギー反応、未知の情報干渉、未知の粒子運動。
それらを総称した一つの自然現象。
神など存在しない。
これは科学で解明可能な現象である。
それがノヴァリス連邦政府の公式見解だった。
都市には自律型輸送機が走り、人工知能が行政を支え、人々は空中道路を行き交う。
医療も農業も通信も兵器もその全てが世界最高峰。
人類史上、最も発展した国家。
それが黎明時代の覇権国家ノヴァリス連邦。
だが。
その輝かしい繁栄の土台には、決して公になることのない闇が存在していた。
神を否定した国家は。
誰よりも神を研究していた。
その皮肉を知る者は、ごく限られた人間だけだった。
ノヴァリス連邦首都・アストラ
政府機関にも記録されない極秘区域。
中央特殊観測研究所≪ASTERION≫
正式名称は、未知エネルギー・古代文明・天体現象を研究する国家機関。
一般研究員ですら、その説明を疑うことはない。
しかし、それは偽りだった。
施設の本来の目的はただ一つ。
オラクル現象の軍事利用。
そして、人類が再び神を制御するための研究。
研究所地下。
第十三地下研究都市。
地下数十階に及ぶ巨大施設には、兵器工場、AI管理区画、実験区画、生態研究棟、解析室、武装格納庫までもが整備され、一つの都市そのものが築かれていた。
そのさらに深く。
地下最深部。
第零封印区画。
最新鋭の設備に囲まれているにも関わらず、その空間だけはまるで古代遺跡のような荘厳さを漂わせていた。
中央には巨大な薄紫色の結晶。
高さは三メートルを超える。
結晶内部では、一人の少女が静かに眠り続けていた。
長い黒髪。白い肌。
幼い少女の姿。
だが、その存在だけが、この巨大研究都市のすべての中心だった。
彼女を囲むように施設が造られた。
彼女を解析するためだけに国家予算が投じられた。
彼女一人のために、国家が動いている。
少女の正体は不明。
名前も出生も、何一つ分からない。
ただ、一冊の古びた文献だけが、彼女の存在を示していた。
―――私たちを加護してくださったソレーヌの巫女、アリシアは変わってしまわれた。
内戦の果て、その身は闇へと染まり、存在するすべてを無へ帰そうとなさった。
なぜ、あの優しかったお方が……
私たちには、その理由だけは最後まで分からなかった。―――
出所不明、年代不明。
信憑性も証明されていない。
だが、その文献に描かれた少女と、結晶で眠る少女の姿は一致していた。
ノヴァリス連邦政府は結論づける。
この少女こそ、神託文明の秘密を知る存在であると。
そして始動した極秘計画。
Project:Genesis
目的は一つ。
少女の力と神託時代の技術を解析し、人類が制御可能な兵器へと変えること。
オラクルを神から奪い、人類の手へ。それがGenesis計画の本質だった。
その日。
研究所内には普段と違う緊張感が漂っていた。
数十年にわたり微動だにしなかった結晶に、初めて変化が確認されたのである。
同時刻。
ノヴァリス連邦特殊実働部隊三名が極秘任務としてルミナリアへ出撃していた。
彼らの任務は一つ。
ルクス隊の行動を監視し、ソレーヌに今も存在している可能性が高いもう一人の少女を確保すること。
裏ルートで得た情報から、ルクス隊が封印解除へ向かう日時はすでに割り出されていた。
そして研究AI・ORIONは、もう一つの予測を導き出している。
ルミナリアで封印が解かれた瞬間、第零封印区画の少女も目覚める。
その確率。99.9972%
研究員たちは誰もが息を潜め、その瞬間を待っていた。
厚い強化ガラス越し、無数のモニター、解析装置、生命反応、エネルギー波形。
すべてが少女へ集中している。
そして、その最前列。
一人の男だけが静かに腕を組み、結晶を見つめていた。
白衣の上から黒と銀を基調としたロングコートを羽織り、襟元には青白く発光する識別結晶。
整えられた黒髪。
細い銀縁眼鏡。
二メートル近い長身。
鋭い知性を宿す灰色の瞳。
中央特殊観測研究所主任研究員。
エーヴェル。
Genesis計画最高責任者。
彼だけは周囲の研究員とは違っていた。
興奮も、不安もない。
ただ静かに。
まるで長年眠る我が子の目覚めを待つ父親のように、優しい眼差しを少女へ向けていた。
「……いよいよだ。」
小さく呟いた。その瞬間だった。
モニターの数値が一斉に跳ね上がる。
施設中に警報音が鳴り響いた。
赤い警告灯が研究所を染める。
「オラクル反応急上昇!」
「結晶表面エネルギー異常!」
「拘束フィールド維持不能!」
誰かが叫ぶ。
しかし、エーヴェルだけは微動だにしなかった。
彼は確信していた。
これは異常ではない。
予定通りなのだ。
やがて。
静寂の中に、小さな音が響く。
―パキッ。
誰も傷一つ付けられなかった結晶。
数十年間、世界最高峰の科学技術をもってしても破壊できなかった絶対の檻。
そこに一本の亀裂が走った。
続いて。
パキ……。
パキパキッ……。
蜘蛛の巣のように広がる無数のヒビ。
研究員たちは言葉を失った。
恐怖、驚愕、歓喜。
様々な感情が入り混じる中。
エーヴェルだけが、静かに口元を緩めた。その微笑みは、慈愛にも見えた。そして同時に、底知れぬ狂気を秘めてもいた。
結晶の内部で。
少女の指先が、わずかに動いた。
暗い。
どこまでも、暗い。
光という概念すら存在しないような漆黒の世界。
音もない。風もない。
時間すら止まってしまったような静寂の中で、一人の少女は膝を抱え、小さく身体を丸めていた。
長い黒髪が静かに揺れる。
白い素足は黒い靄に埋もれ、その存在すら曖昧だった。
眠っている。
いや、眠り続けている。
どれほどの時が流れたのか。
昨日なのか、百年前なのか、千年前なのか。
それすら分からない。
少女には時間という概念が存在しなかった。
自分が誰なのかも。
なぜ眠っているのかも。
何も思い出せない。
ただ、この闇だけが自分の世界だった。
その時だった。
少女を包む黒い靄がゆっくりと蠢く。
靄は生き物のように彼女の頬へ触れた。
その瞬間。
景色が弾ける。
「やめてぇぇぇぇっ!」
少女が叫ぶ。知らない少女。知らない場所。知らない声。
「どうして……そんな酷いことを……」
「助けて…」
「アリシア様……!」
「お願いです……戻ってきて下さい……!」
「アリシア様なの…?……本当に…?」
「どうして…」
「どうして……!」
断末魔。
悲鳴。
泣き声。
燃え盛る街。
崩れ落ちる建物。
空を覆う黒い光。
すべてが一瞬だけ映り、すぐに闇へ飲み込まれる。
「……いや」
少女は胸を抑えた。
知らない記憶なのに。
知らない人たちなのに。
どうして、その叫びが、こんなにも懐かしいのだろう。
そして。
どこか心の奥底では、その絶望が酷く心地よかった。
「私は…誰…?」
誰に問いかけても返事はない。
黒い世界は沈黙したままだ。
その時。
闇の彼方から、ほんの僅かに暖かな気配が届いた。
(……もう一人の…私…)
少女は顔を上げる。
今の声は。
誰?
(あなたは……)
微かに聞こえる。
優しく。
どこが寂しそうな声。
(……誰なの……?)
少女は思わず手を伸ばした。
届きそうで届かない。
靄の向こう。
柔らかな光、白い髪、優しい瞳。
少女がその姿を見ようとした瞬間。
世界が割れた。
――パキッ。
乾いた音。
闇が砕け散る。
光が一気に流れ込んできた。
まぶしい。
あまりにも眩しかった。閉じていた瞼がゆっくりと開く。
最初に見えたのは白。
白い天井、白い光、白い部屋。
そして、見知らぬ人影。
ぼやけた視界の向こうで、幾つもの影が自分を見つめていた。
眩しさに思わず目を細める。
少しずつ輪郭が鮮明になる。
全員が白い服を着ていた。
「…………」
声を出そうとした。
喉が震える。
何年ぶりなのかも分からない呼吸が肺へ流れ込む。
冷たい空気。鼓動。体温。
自分は生きている。その実感だけがあった。
ふと視線を落とす。
砕けた薄紫色の結晶が光となって消えていく。
拘束していた檻は跡形もなく消滅していた。
少女は冷たい床へ座り込んでいる。
「ここ……は……」
誰に向けた言葉だったのか。自分にも分からない。
すると。
人影の中から、一人の男がゆっくり歩き始めた。
長身、整えられた黒髪。銀縁眼鏡の奥には知的な灰色の瞳。
威圧感はない。
それなのに、不思議と目を逸らせない存在感があった。

男は少女の前まで来ると静かに膝をつく。少女と同じ高さまで視線を合わせる。
そして、優しく微笑んだ。
「おはよう。」
その声は穏やかだった。恐怖を抱かせない。
父親が幼い娘へ話しかけるような優しさ。
「おはよう、アリシア。」
一拍置き。
「……いや。」
「レイア。」
その名前を聞いた瞬間。
少女の胸が小さく騒めく。
「レ……イア…?」
口の中で転がす。聞き覚えはない。
それでも。
今の自分には、それを確かめる術はない。
「それが…私の名前……?」
男は柔らかく頷く。
「ああ。」
「君はレイアだ。」
嘘か本当か判断できない。
記憶は何もない。
自分が誰なのか。
どこから来たのか。
何一つ思い出せない。
男は静かに右手を差し出す。
「立てるかい?」
少女はその手を見る。大きな手。温かそうな手。
誰かに触れられる。その経験すら、彼女には記憶になかった。
恐る恐る震える指先を伸ばす。
そっと重なる。
次の瞬間。
ぬくもりが伝わった。
「……あ……」
温かい。
初めてだった。
こんなにも誰かの体温が優しいものだなんて。少女は無意識にその手を少し強く握る。
男は優しく引き上げ、ふらつく身体を支える。
「ゆっくりでいい。」
「急がなくていい。」
少女レイアは小さく頷いた。
その瞳には、不安と安堵が入り混じっていた。
この優しい男こそが、運命を大きく狂わせる存在であることを
レイアは知る由もなかった。
同刻。研究所最上層。機密会議室。
大型モニターには、ルミナリアへ向かった実働部隊の映像が映し出されていた。
画面の端には、一つの計画名が静かに表示されていている。
Project:Genesis
その下に、新たな項目が追加される。
Subject : No.000
Status : AWAKE
Code Name : REIA
人工知能ORIONが淡々と告げる。
「被験体No.000、覚醒を確認しました。Genesis計画は第二段階へ移行します。」
誰かが静かに笑った。
世界はまだ知らない。
ソレーヌでアリシアが目覚めた、その同じ日に。
ノヴァリス連邦でもまた、一人の少女が静かに瞳を開けていたことを。
そして、二人の記憶が戻り運命が再び交わる時、この世界は神託文明以来最大の転換点を迎えることになる。
それはまだ、誰も知らない未来だった。

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