―――それは、夢だったのか。
それとも、遠い昔に存在した、失われた記憶だったのか。
柔らかな風が頬を撫でる。
鼻先をくすぐる花々の香り。
どこまでも続く青い空。
遥か眼下には、白く輝く街並みが広がっていた。
白亜の建物が整然と並び、幾本もの水路が街を巡り、中央には巨大な塔が天を貫くように聳え立っている。
広場では子供たちが元気よく走り回り、市場では人々の笑い声が響き渡る。
鐘楼から聞こえる澄んだ鐘の音。
風に揺れる木々のざわめき。
小鳥たちの囀り。
すべてが穏やかで、優しく、美しかった。
――私の大好きな街。
少女は丘の上へ寝転びながら、ゆっくりと空を見上げていた。
城壁の外れにある小さな丘。
花々が一面に咲き誇り、季節ごとに違う景色を見せてくれる少女だけのお気に入りの場所だった。
街から少し離れているため、人が訪れることはほとんどない。
だからこそ、この静かな時間が好きだった。
風に身を任せながら、少女は小さく笑う。
「今日は、本当にいい天気…」
思わずそんな言葉が漏れる。
普段は自由に外へ出ることは許されない。
だからこそ、今日という特別な休暇が何よりも嬉しかった。
この景色を見ているだけで胸がいっぱいになる。
目を閉じれば、草花が揺れる音さえ心地よい音楽のように感じられた。
その時だった。
――ザッ、ザッ……
草を踏みしめる穏やかな足音。
少女は振り向くことなく微笑んだ。
(この場所を知っている人なんて、ほとんどいない。)
ここへ案内した人しか、この丘の存在は知らない。
だから驚くこともない。
足音はゆっくりと近づき、やがて優しい声が少女へ届いた。
「――――、やっぱりここにいたのか。」
その声を聞いた瞬間、少女は勢いよく身体を起こす。
「はい!」
満面の笑み。
太陽にも負けないくらい眩しい笑顔だった。
「今日はお休みだから、大好きなこの場所に来たんです!」
少女は嬉しそうに話しながら、丘の下を見下ろした。
眼下には白い都市。
遥か遠くには青空と雲海。
その景色は、まるで世界そのものを見守っているかのようだった。
「――――様も、この丘は気に入りましたか?」
青年は静かに周囲を見渡す。
風が彼の髪を揺らす。
しばらく景色を眺めた後、穏やかに微笑んだ。
「ああ。」
「とても気に入っているよ。」
その一言だけで少女の表情がぱっと明るくなる。
「やったぁ!」
「でも、この場所は秘密ですよ!」
「他の人には絶対教えちゃ駄目ですからね!」
少し頬を膨らませながら、人差し指を立てる。
「約束ですよ?」
青年は苦笑しながら頷いた。
「わかった。」
「約束しよう。」
「えへへ。」
少女は安心したように笑った。
その笑顔を見て青年も自然と笑う。
二人の間に流れる時間は、とても穏やかだった。
言葉を交わさなくても心地よい。
同じ景色を眺めるだけで満たされる。
そんな時間だった。
風がまた吹く。
花びらが空へ舞い上がる。
少女は再び草原へ寝転び、青空を見つめた。
(ずっと、このままだったらいいのにな。)
不意にそんな考えが胸をよぎる。
(どうしてだろう。)
(今、とても幸せなのに。)
(なのに、胸が少し苦しい。)
理由は分からない。
何かが終わってしまうような。
何かを失ってしまうような。
そんな言いようのない不安だけが胸の奥に残っていた。
少女は空へ手を伸ばす。
透き通る青空。
流れていく白い雲。
その景色は、どこまでも優しかった。
やがて空が茜色に染まり始める。
青年はゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ戻る。」
「日が暮れる前には帰るんだぞ。」
少女も身体を起こし、小さく頷く。
「はい!」
「今日はありがとうございました!」
「――――様も気を付けて帰ってくださいね!」
青年は振り返らずに片手をあげる。
「ああ。」
それだけ言い残し、丘を下っていく。
少女はその背中が見えなくなるまで見送っていた。
やがて一人になる。
静寂。
吹き抜ける風。
草花の香り。
「あと少しだけ……」
名残惜しそうに呟き、少女は再び寝転ぶ。
瞳を閉じる。
風が心地よい。
花の香りが優しく身体を包む。
ゆっくりと意識が遠のいていく。
――ああ。
――幸せ。
その想いだけを胸に、少女は静かに眠りへ落ちた。
……どれくらい眠っていたのだろう。
温かな風は消えた。
鳥の囀りも聞こえない。
代わりに感じるのは、どこか冷たい空気。
暗闇の中で誰かの声が聞こえる。
「…………」
「…………ん」
誰だろう。
思い出せない。
声は少しずつ近づいてくる。
光が差し込む。
瞼の向こうが白く染まる。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
「……ん。」
ぼやけた視界。
見知らぬ白い天井。
少女はゆっくりと身体を起こした。
そこは見覚えのない部屋だった。
整えられた家具。
本棚。
窓から差し込む朝の光。
そして、自分の知らない奇妙な機械が静かに音を立てている。
「……ここ、は……?」
掠れた声が漏れる。
夢ではない。
現実だ。
少女は困惑しながら自分の身体へ視線を落とした。
腕には見慣れない銀色のリストバンドが装着されている。
細い光が一定の間隔で点滅している。
「これ……」
何だろう。
考えようとした、その瞬間。
――ダダダダダッ!!
廊下の向こうから、誰かが勢いよく駆けてくる音が響いた。
その足音は真っ直ぐ部屋の前で止まり――
勢いよく扉が開かれた。
「――!!」
息を切らせながら、一人の少女が部屋へ飛び込んでくる。
長い黒紫色の髪を揺らし、紫色の瞳を大きく見開いたその少女は、安堵と喜びを隠しきれない表情だった。
「……起きたのね!」
少女は胸に手を当て、大きく息を吐く。
「本当に……よかった……。」
その一言には、心の底から安心した気持ちが込められていた。
彼女は近くの椅子を持ってきてベッドの横へ置くと、静かに腰掛ける。
深呼吸を一つ。
少しだけ落ち着きを取り戻した彼女は、優しく微笑んだ。
「はじめまして。」
「私はアリア。」
「あなたの名前を教えてもらえるかな?」
穏やかな口調だった。
決して急かさず、相手を安心させるような優しい口調。
少女は少し安心したように頷く。
「私の……名前は…」
その瞬間。
言葉が止まる。
(……あれ?)
(私の名前って……なんだっけ。)
当たり前に答えられると思っていた。
それなのに。
何も出てこない。
少女は目を閉じた。
頭の奥がじんわりと熱くなる。
すると――
「――――!」
「あっ、――――様!」
「おはよう、――――。」
断片的な声だけが浮かび上がる。
笑顔。
優しい手。
青空。
花畑。
どれも一瞬で砕け散っていく。
(違う……。)
(思い出せない……。)
(私は……誰なの?)
心臓が早鐘を打つ。
息が苦しい。
白い靄が頭の中を覆っていく。
その奥から、一筋の光が差した。
「アリシア。今日から君が―――――」
その声だけは、不思議なくらい鮮明だった。
優しく。
誇らしく。
自分を見守ってくれていた誰かの声。
少女は大きく目を見開く。
「……!」
その先を思い出そうとした瞬間、記憶は再び霧の中へ沈んでしまった。
残ったのは、一つだけ。
少女はゆっくりとアリアを見つめる。
「私の名前は……」
小さく息を吸い。
「ア…アリシア。」
静かな部屋に、その名前だけが響いた。
少女自身も驚いていた。
どうして名前だけ覚えているのか。
それ以外は何一つ思い出せないのに。
アリアは目を細め、心から嬉しそうに笑った。
「アリシア。」
「素敵な名前。」
「よろしくね、アリシア。」
その柔らかな笑みに、アリシアの緊張が少しだけほぐれる。
「なんだか私と名前が似てるね。」
アリアは少し照れくさそうに笑う。
アリシアの口元にも、小さな笑みが浮かんだ。
しかし、その笑みはすぐに曇る。
「ごめんなさい……。」
「名前以外……何も思い出せないの。」
俯くアリシア。
震える声。
自分が誰なのかも分からない恐怖。
この世界に取り残されたような孤独。
そのすべてが小さな肩にのしかかっていた。
アリアは何も責めなかった。
ただ静かに頷く。
「うん。」
「大丈夫。」
「名前だけでも思い出せた。」
「それだけでも十分だよ。」
そう言って、そっとアリシアの手を包み込む。
温かい。
人の手の温もり。
忘れていたはずなのに、どこか懐かしい。
冷え切っていた心へ、ゆっくりと温もりが染み込んでいく。
アリアは穏やかな声で続けた。
「ここはレグナリア共和国の首都アルテア。」
「そして、この部屋はルクス隊本部宿舎にある私の部屋なの。」
「あなたは天空に浮かぶ超大陸ルミナリア、その中心都市ソレーヌで私たちが保護したの。」
「数千年もの間、封印されたまま眠っていた。」
アリシアは息を呑む。
「数千年……?」
到底信じられる話ではない。
けれど、アリアの瞳には嘘が一つもなかった。
「……何も、分からない。」
震える声で呟く。
「私は……これから、どうなるの……?」
未来への不安。
失われた記憶。
何も持たない自分。
そんな想いを察したように、アリアは微笑む。
「安心して。」
「アリシア。」
「これからは私と一緒に暮らそう。」
その言葉に、アリシアは目を丸くした。
「あなたは一人じゃない。」
「私がそばにいる。」
「だから焦らなくていい。」
「少しずつ、一緒に思い出していこう。」
アリシアの瞳に涙が滲む。
何も分からない世界で、初めて与えられた居場所。
震える手で、今度は自分からアリアの手を握り返した。
「……ありがとう。」
小さな、小さな声。
けれど、その一言には確かな想いが込められていた。
アリアは優しく微笑み返す。
「約束。」
「必ず一緒に、あなたの記憶を取り戻そう。」
「どんな過去だったとしても、私は最後まであなたの味方だから。」
その言葉に、アリシアは力強く頷いた。
失われた記憶は、まだ戻らない。
それでも。
隣に誰かがいてくれる。
その温もりだけで、不安は少しだけ小さくなっていた。
アリアはアリシアの手をそっと離すと、小さく微笑んだ。
「……まずは、ご飯を食べようか。」
「え?」
アリシアが首を傾げた、その瞬間。
――ぐぅぅぅぅ……
部屋いっぱいに響くほど素敵なお腹の音が鳴った。
「…………」
時間が止まる。
アリシアは自分のお腹を見つめ、次第に耳まで真っ赤になっていく。
「あ……」
「……」
俯いたまま固まってしまうアリシア。
その姿を見たアリアは思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、小さく笑った。
「ふふっ。」
「ごめん、ごめん。」
「それだけ元気なら安心した。」
からかうような笑いではない。
本当に安心したような優しい笑みだった。
アリシアも少し照れくさそうに笑う。
「お腹…空いてたみたい。」
「数千年眠ってたんだもん。」
「きっと世界一お腹が空いてるよ。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
ほんの少しだけ。
部屋の空気が柔らかくなる。
アリアは衣装棚から一着の服を取り出した。
「着替えられそう?」
差し出されたのは、白を基調とした動きやすいワンピースだった。
袖口や裾には紫色の刺繡が施され、どこか神託術士の装束を思わせる落ち着いた意匠になっている。
「私には少し大きいかもしれないけど……。」
アリアは苦笑する。
「ありがとう。」
アリシアは服を受け取る。
今まで身に纏っていた純白の衣装は、ソレーヌで目覚めた時のまま。
美しい衣装ではあるものの、今は保護対象として動きやすい服の方が良い。
「着替え終わったら声をかけてね。」
そう言うとアリアは部屋を出ていった。
静かな部屋。
アリシアはゆっくりと服へ袖を通す。
柔らかな布の感触。
どこか懐かしい温もりだった。
(変な感じ。)
(知らない服なのに……。)
(なんだか安心する。)
鏡の前へ立つ。
淡いクリーム色の長い髪。
幼さを残した整った顔立ち。
琥珀色にも金色にも見える澄んだ瞳。
鏡の中の少女は、自分なのにどこか他人のようだった。
(私は……。)
(本当にアリシアなんだよね。)
答えは返ってこない。
それでも今はその名前だけが自分と世界を繋ぐ唯一の証だった。

着替えを終えると、アリアが再び部屋へ入ってきた。
「似合ってる。」
その一言にアリシアは少し照れる。
「ありがとう。」
アリアは満足そうに頷くと扉を開けた。
「じゃあ行こう。」
部屋を出た瞬間。
アリシアは思わず足を止めた。
「わぁ……。」
目の前には長い廊下が続いていた。
白い壁。
磨き上げられた木の床。
天井には一定間隔で照明が並び、窓からは柔らかな陽光が差し込んでる。
どこか温かみを感じる建物だった。
「ここがルクス隊本部。」
アリアは歩きながら説明する。
「私たちはレグナリア共和国直属の神託調査隊なの。」
「ここには隊員の居住区、研究施設、医療棟、それに訓練施設まで全部揃ってる。」
アリシアは興味津々に辺りを見渡す。
廊下を歩く人々は皆忙しそうだが、どこか穏やかそうな表情をしていた。
すれ違う隊員たちはアリアを見ると立ち止まり、自然に敬礼を送る。
「隊長、お疲れ様です!」
「お疲れ様。」
アリアも柔らかく返す。
その姿にアリシアは少し驚いた。
(みんな……。)
(アリアをすごく信頼してる。)
威圧感はない。
それでも自然と人がついてくる。
そんな隊長だった。
二人は階段を下り、一階へ到着する。
大きな正面玄関のガラス越しに外の景色が見えた。
「ここが……」
アリシアは息を呑む。
巨大な都市が広がっていた。
整備された石畳の大通り。
往来する人々。
馬車の代わりに静かに走る機械仕掛けの車両。
空には輸送用の飛行艇がゆっくりと飛び交っている。
都市の中央には白い王城。
さらに遠くには巨大な神託塔が空へ向かって伸びていた。
「これがアルテア。」
アリアが静かに言う。
「レグナリア共和国の首都であり、政治、文化、神託研究、そのすべての中心都市。」
「黎明時代では世界でも有数の大都市なんだ。」
ソレーヌのような神秘的な美しさとは違う。
人々が生き、技術が発展し、未来へ進み続ける街。
活気に満ちたその景色に、アリシアは目を輝かせる。
「すごい……。」
「こんな景色……初めて見る。」
その言葉にアリアは少しだけ寂しそうに笑った。
(本当は、ソレーヌが希望に満ちた街だった頃の景色を見たことあるのかもしれない。)
(でも、その記憶は失われてしまった。)
そう思うと胸が少し痛んだ。
「ご飯は食堂で食べよう。」
アリアは気持ちを切り替えるように歩き始める。
「ルクス隊の料理は結構人気なんだよ。」
「そうなの?」
「うん。」
「特に今日の料理長は腕がいいから楽しみにしてて。」
その言葉にアリシアはお腹が再び小さく鳴った。
二人は顔を見合わせる。
「ふふ。」
「あ……。」
今度は二人とも笑ってしまった。
数十分前まで、世界も自分も分からず不安に震えていた少女。
そんな彼女の表情には、少しだけ笑顔が戻り始めていた。
その笑顔を見たアリアもまた、心の底から安堵していた。
(よかった。)
(少しずつでいい。)
(ここがアリシアの新しい居場所になればいい。)
そう願いながら、アリアは隣を歩く少女の歩幅に合わせ、ゆっくりと食堂へ向かった。
食堂の自動扉が静かに開く。
昼時を少し過ぎていることもあり、広々とした食堂には多くの隊員たちが談笑しながら食事を楽しんでいた。
香ばしい焼きたてのパンの匂い。
温かなスープの湯気。
肉料理の香りが食欲を刺激する。
アリシアは思わず辺りを見回した。
「すごい………。」
笑い声が響き、人々が語り合い、誰もが当たり前のように食事をしている。
その光景だけで胸が少し温かくなった。
しかし――
「あっ。」
一人の隊員がアリアへ気付き、席を立つ。
「隊長だ!」
その一言をきっかけに、食事中の視線が一斉に二人へ集まった。
そして。
「……あ。」
「もしかして。」
「あの子……。」
皆の視線は自然とアリアの隣へ向く。
そこには、ソレーヌで保護された少女が立っていた。
アリシアは少しだけ肩を震わせる。
(みんな……見てる。)
知らない人ばかり。
緊張で足が止まりそうになる。
そんなアリシアの様子に気付いたアリアは、何気なく一歩前へ出た。
「大丈夫。」
小さくそう囁く。
それだけで、不思議と安心できた。
すると一人の女性隊員が笑顔で近づいてくる。
「隊長、お疲れ様です!」
「お疲れさま。」
「その子が噂の?」
アリアは頷く。
「うん。」
「今日目を覚ましたばかりなの。」
女性隊員は目を丸くした後、優しく微笑んだ。
「はじめまして。」
「私は医療班のエレナ。」
「よろしくね。」
アリシアは少し戸惑いながらも小さく頭を下げる。
「……よろしくお願いします。」
それだけだった。
しかし、その一言だけで十分だった。
「かわいい……。」
「本当に目覚めたんだ。」
「よかったなぁ。」
隊員たちは自然と笑顔になる。
誰一人として警戒していない。
まるで家族を迎えるような空気だった。
その温かさに、アリシアの緊張は少しずつほどけていく。
「お腹空いてるんでしょ?」
厨房から顔を出した料理長らしき男性が豪快に笑う。
「今日は腕によりをかけたからいっぱい食べな!」
その言葉に食堂中が笑いに包まれた。
アリアも苦笑する。
「ありがとうございます。」
二人は料理を受け取り窓際の席へ腰掛けた。
焼きたてのパン。
香草の効いたスープ。
色とりどりの野菜のサラダ。
柔らかく煮込まれた肉料理。
どれも湯気を立て、美味しそうな香りを漂わせている。
アリシアは恐る恐るスプーンを手に取った。
一口。
口へ運ぶ。
「……!」
優しい旨味が口いっぱいに広がる。
身体の奥まで温まるような味。
「おいしい……。」
自然と笑みがこぼれた。
その笑顔を見てアリアも嬉しそうに笑う。
「よかった。」
「料理長の料理は本当に美味しいから。」
「毎日食べられるなんて羨ましい。」
アリシアは夢中で食べ始める。
パンを頬張り、スープを飲み、また笑顔になる。
その姿を見ていた周囲の隊員たちも思わず笑ってしまう。
「隊長。」
一人の青年隊員が近寄ってきた。
「その子、本当に何も覚えていないんですか?」
アリアは静かに頷く。
「名前だけ。」
「それ以外はなにも。」
「そうですか……」
青年は少し残念そうな顔をする。
「でも。」
「ここなら安心ですよ。」
「ルクス隊のみんな優しいですから。」
「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね。」
アリシアは驚いた。
初めて会ったばかりなのに。
どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。
「……ありがとう。」
小さく笑う。
その笑顔は先ほどよりも自然だった。
食事を終えた頃には、アリシアも何人かの隊員と言葉を交わせるようになっていた。
他愛ない会話。
好きな食べ物。
ルクス隊の日常。
それだけでも十分楽しかった。
アリアはそんな様子を静かに見守っていた。
(よかった。)
(少しずつだけど笑えるようになってきた。)
その時。
館内放送が流れる。
「ルクス隊全隊員へ。本日十五時より第一会議室にて臨時会議を開始します。各員、速やかに集合してください。繰り返します――」
アリアは時計を見る。
「もうそんな時間か。」
立ち上がる。
「アリシア。」
「これからルクス隊のみんなに、正式にあなたを紹介する会議があるの。」
アリシアは少し緊張した表情になる。
「私も……行くの?」
「もちろん。」
アリアは優しく笑った。
「大丈夫。」
「私が隣にいるから。」
その一言だけで、アリシアは小さく頷く。
二人は食堂を後にし、本部の中央棟へ向かって歩き始めた。
廊下では多くの隊員たちが会議資料を片手に会議室へ急いでいる。
皆、アリアへ敬礼を送りながら通り過ぎていく。
やがて、一際大きな扉の前へ辿り着く。
第一会議室。
ルクス隊の作戦会議や重要な報告が行われる場所。
百名以上を収容できる半円形の会議室には、大型モニターや神託解析装置が整然と並び、檀上には演説用の演台が設置されていた。
開始十分前にも関わらず、すでに多くの隊員が着席している。
二人が扉を開けると、騒めいていた会議室が静かになった。
無数の視線が、一斉にアリシアへ向けられる。
思わず足が止まる。
緊張で手が震える。
すると、隣からそっと手が重ねられた。
「大丈夫。」
アリアだった。
温かな手。
その温もりを感じたアリシアは、小さく息を吸う。
「……うん。」
今度は迷わず歩き出した。
二人は最前列の席へ向かい、静かに腰を下ろす。
時計の針が、開始時刻をゆっくり刻んでいた。
会議開始五分前。
第一会議室には、すでに百名を超えるルクス隊隊員たちが静かに席へ着いていた。
先ほどまで聞こえていた談笑はほとんどなく、代わりに資料をめくる音や、小さく交わされる確認の声だけが広い室内に響いている。
壁面に設置された大型モニターには、ソレーヌ全域の立体地図と調査記録が映し出され、その横には極秘の赤い文字が表示されていた。
今回の会議は、ルクス隊発足以来でも最重要とされる緊急会議である。
誰もがその重みを理解していた。
やがて、静寂を切り裂くように開始を告げる鐘が鳴り響く。
コン――。
室内の照明がゆっくりと落ち、壇上だけが明るく照らされた。
アリアは静かに立ち上がる。
「行こう。」
「……うん。」
隣で小さく頷いたアリシアの手は、まだ少し震えていた。
アリアは安心させるようにその手を軽く握り、ゆっくりと壇上へ向かう。
二人が歩き始めると、百を超える視線が自然と集まった。
ソレーヌで発見された少女。
数千年もの眠りから目覚めた存在。
その姿を直接見るのは、ここにいる大半の隊員にとって初めてだった。
壇上へ到着すると、自動的にマイクが起動する。
アリアは一度深呼吸をし、会場全体を見渡した。
「皆、本日は急な招集にも関わらず集まってくれてありがとう。」
よく通る落ち着いた声が、静かな会議室へ広がる。
「ソレーヌ調査で発見した少女について。そして、今後のルクス隊の方針について説明します。」
その言葉に、隊員たちの表情が引き締まる。
アリアは一歩横へ移動し、隣に立つ少女へ優しく微笑みかけた。
「まずは紹介します。」
「この子が、ソレーヌ中央区画の塔内部で保護した少女。」
「名前は――アリシア。」
アリアは小さな声で囁く。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。」
アリシアは小さく息を吸い、緊張したまま一歩前へ出た。
壇上の照明が彼女を照らす。
百を超える視線。
その全てが自分へ向いている。
胸が高鳴る。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「わ……私の名前は…アリシアです。」
一度言葉が詰まる。
しかしアリアがそっと頷く姿を見て、もう一度勇気を振り絞った。
「記憶は……ほとんどありません。でも……よろしくお願いします。」
深く頭を下げる。
一瞬だけ静寂が訪れ――。
次の瞬間。
パチパチパチパチ……
自然と拍手が広がっていく。
誰か一人ではない。
医療班も、護衛隊も、研究班も。
全員が温かな拍手を送っていた。
アリシアは驚いたように顔を上げる。
(怖く……ない。)
知らない人ばかりなのに、不思議と恐怖は感じなかった。
その拍手には歓迎の気持ちが込められていたからだ。
アリアもどこか誇らしげに笑い、マイクを受け取る。
「ありがとう。」
「アリシアは現在、名前以外の記憶を失っています。」
拍手が止み、会場の空気が再び引き締まる。
「出身地、家族、自分が何者なのか、何一つ覚えていません。」
「これはソレーヌで発見された時点から変わっておらす、現在も医療班による診断が続いています。」
大型ミニターへ映像が切り替わる。
崩壊したソレーヌ。
白い塔。
眠るアリシア。
そして爆発によって消滅した市街地。
隊員たちの間に小さなどよめきが起こる。
「さらに、我々ルクス隊は正体不明の敵から攻撃を受けました。」
会場の空気は一変した。
「敵は視認不可。」
「観測機器にも映らず。」
「神託術による探知も無効。」
「そして極めて高位の神託術を使用。」
「もしアリシアが神託術を展開していなければ、この場に私は立っていません。」
静まり返る会議室。
アリアは淡々と事実だけを伝える。
「以上を踏まえ、政府およびルクス隊本部は結論を出しました。」
一拍置く。
「本日をもって、ルクス隊によるソレーヌ調査任務を無期限凍結します。」
その一言は重かった。
誰もが予想していた。
しかし実際に告げられると、その重みはまるで違う。
「……。」
沈黙が流れる。
アリアは続ける。
「そして本日付けで、私アリアは隊長職を一時離れます。」
「以後のルクス隊の指揮権は、副隊長のリヒトへ委譲します。」
最前列に座っていた青年が静かに立ち上がる。
銀灰色の短髪。
鍛え上げられた体躯。
鋭い眼差しを持ちながらも、その瞳には部下を思う優しさが宿っていた。
ルクス隊副隊長リヒト。
アリアに次ぐ実力者であり、部隊全体を支える頼れる存在だ。
リヒトは壇上へ歩み寄ると、アリアへ敬礼した。
「承知しました。」
「ルクス隊副隊長、リヒトです。」
「本日より隊長代行として部隊を指揮します。」
短く、それでいて力強い宣言だった。
アリアも敬礼を返す。
「みんなをお願い。」
リヒトは静かに頷く。
「必ず、この部隊を守り抜きます。」
互いに微笑み合う。
長年共に戦場を駆け抜けてきた二人だからこそ、言葉は少なくとも十分だった。
リヒトは隊員たちへ向き直り、一歩前へ出る。
「本日よりルクス隊は新たな任務をへ移行する。」
大型モニターに新たな資料が表示される。
【ルクス隊新任務】
・ソレーヌより持ち帰った書物・遺物の解析支援
・敵襲事件の調査及び各国の情報収集
・ルミナリア周辺空域の継続監視
・首都アルテアおよび重要施設の警備強化
「ソレーヌ調査は国家命令により無期限凍結となる。」
「しかし、我々の任務が終わったわけではない。」
「ここからは、敵の正体を突き止めることが我々ルクス隊の使命となる。」
会議室の空気が引き締まる。
「研究班は持ち帰った書物や遺物の解析を最優先で進めてくれ。神託時代やアリシアに繋がる情報は、どんな些細なものでも共有してほしい。」
「観測班はルミナリア周辺の監視を継続。新たな神託反応や異常現象があれば即座に報告すること。」
「戦闘班と護衛班は首都アルテア及び国内主要施設の警備を強化。敵勢力が国内へ侵入する可能性を考慮し、各部隊との連携を密にしてくれ。」
一呼吸置き、リヒトは真剣な表情で続けた。
「情報班。」
「今回の敵襲について、レグナリア共和国上層部はすでに複数の組織を重要監視対象としている。」
会場が静まり返る。
「現段階では国家機密のため詳細は開示できない。」
「しかし、完全に手掛かりがないわけではない。」
「敵については、ある程度の目星が付いている。」
隊員たちの表情がさらに引き締まる。
「我々ルクス隊には、その仮説を裏付ける証拠を集める任務が与えられた。」
「敵の目的。」
「ソレーヌとの関係。」
「そして、なぜアリシアを狙ったのか。」
「それらを徹底的に調査してほしい。」
「また、敵は我々の調査時期を把握していた可能性が高い。情報漏洩、あるいは我々の行動を監視していた者の存在も視野に入れ、各班は十分警戒して任務に当たってほしい。」
「アリア隊長はアリシアと共に神託時代の真実を追う。」
「ルクス隊はそれぞれの持ち場で最善を尽くし、隊員たちが安心して帰ってこられる場所を守り抜く。」
「以上だ。」
「了解!!!」
リヒトは隊の皆とアリアへ一礼し、降壇した。
アリアは一呼吸し、ゆっくりと話し始めた。
「私はアリシアと共に行動します。」
「ソレーヌの真実。」
「敵の正体。」
「そしてアリシアの記憶。」
「その全ては繋がっている可能性が高い。」
「だから私は、一人の調査者として改めてこの事件に向き合います。」
誰も反対しなかった。
その決意が本物であることを、ルクス隊全員が理解していたからだ。
静かな緊張感が会議室を包む中、アリアはゆっくりと次の議題へ移ろうとしていた。
静寂に包まれていた会議室で、アリアは一度会場全体を見渡した。
隊員たち一人ひとりの表情を確かめるように。
そして、穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。
「最後に、もう一つだけ皆に伝えたいことがあります。」
大型モニターの表示が切り替わる。
そこには新規特別任務編成という文字が映し出された。
隊員たちが顔を見合わせる。
「私は今後、アリシアと共に神託時代の調査、そしてアリシアの記憶を取り戻すための旅へ出ます。」
「しかし、私たち二人だけではありません。」
アリアはゆっくりと視線を一人の少女へ向けた。
「医療・支援班所属。」
「護衛神託術士―クレナ。」
「前へ。」
「……え?」
突然名前を呼ばれた少女は、目を丸くした。
薄水色の髪を肩口で揺らしながら慌てて立ち上がる。
「わ、私ですか!?」
「はい。」
「えぇぇぇぇっ!?」
会議室から思わず笑い声が漏れる。
「た、隊長!あっ…違う、元隊長!!」
再び笑い声が漏れる。
「そういう大事なことは事前に教えてくださいよ~!」
クレナは真っ赤になりながら抗議する。
「心の準備が全然できてないです!」
「ごめん、ごめん。」
アリアは少し悪戯っぽく笑う。
「でも、一番適任なのはクレナだから。」
「うぅ………。」
頭を抱えながらも、クレナは観念したように壇上へ上がる。
アリアは改めて皆へ説明を始めた。
「クレナは医療、防御、補助を専門とする支援神託術士です。」
「怪我の治療だけでなく、結界、防壁、神託による身体能力補助にも優れています。」
「そして何より、人を思いやる気持ちが誰よりも強い。」
クレナは照れくさそうに頬を掻いた。
「そんなに褒めても何も出ませんよ……。」
会場からまた笑いが起きる。
重苦しかった空気が、少しだけ和らいだ。
リヒトも腕を組みながら頷く。
「確かに。」
「クレナ以上に適任はいないな。」
「リヒト隊長まで……。」
クレナは恥ずかしそうに俯く。
アリアは隣で緊張しているアリシアへ視線を向けた。
「アリシア。」
「紹介するね。」
「この子がクレナ。」
「これから私たちと一緒に旅をする仲間だよ。」
クレナは少し緊張しながら笑顔を作る。
「えっと……」
「よろしくね。」
「私、クレナっていいます。」
「食べることが好きで、医療担当です!」
最後だけ妙に元気だった。
アリシアは思わずくすっと笑う。
「私はアリシア。」
「よろしくお願いします。」
二入はゆっくりと頭を下げ合った。
まだぎこちない。
それでも、確かに新しい繋がりが生まれた瞬間だった。
会場の隊員たちはその様子を温かく見守っている。
「じゃあ、アリシアちゃん!」
「今度美味しいお店紹介するね!」
「食堂のおばちゃんのご飯も最高だから!」
「えっ、それ私も食べたいです!」
「おいクレナ、お前仕事忘れるなよ。」
野次が飛んでくる。
「忘れませんよ~!」
笑い声が広がる。
アリシアも自然と笑顔になっていた。
やがて会議は終盤へと入る。
アリアは最後の説明を始めた。
「私たちが最初に向かう場所はエルシア王国です。」
モニターには一枚の地図が映し出される。
レグナリア共和国の西方。
交易路が何本も集まり、世界中から人と物資が行き交う巨大国家。
「エルシア王国は商業と交易が盛んな国。」
「情報商人、冒険者、傭兵、学者。」
「良くも悪くも、世界中の情報が集まります。」
画面には酒場、市場、図書館、教会などが映る。
「神託時代に関する文献も数多く残されている可能性があります。」
「まずはそこから調査を始めます。」
クレナは少しだけ表情を曇らせた。
「エルシアですか……。」
「治安が悪い地区もありますよね。」
「だからこそ。」
アリアは真剣な眼差しになる。
「クレナ。」
「あなたに私たちの後方支援を任せたいのです。」
「はい。」
「必ず二人を守ります!」
元気よく返事をする。
続いてアリアはアリシアを見る。
「アリシア。」
「今のあなたに無理はさせない。」
「記憶を思い出そうと焦る必要もない。」
「私たちと一緒に旅をして、世界を見て、少しずつ思い出していこう。」
アリシアは静かに頷いた。
「私にも……何か出来ることはある?」
その問いに、アリアは優しく微笑む。
「あるよ。」
「笑っていてくれること。」
「そして、気付いたことを何でも私たちに話してくれること。」
「それだけで十分。」
クレナも元気よく続ける。
「あと、美味しそうなお店見つけたら教えて!」
その一言で再び笑いが起こる。
「もうクレナったら。」
アリアが苦笑する。
「食べることばっかり。」
「だって旅の楽しみじゃないですか!」
アリシアも思わず笑ってしまう。
「うん。」
「私も探してみる。」
三人の距離が少しだけ近づいた。
会議終了の鐘が鳴る。
隊員たちは立ち上がり、一斉に敬礼した。
「お気を付けて!」
「必ず帰ってきてください!」
「待っています!」
次々に掛けられる言葉。
アリアは静かに敬礼を返す。
「ありがとう。」
「みんなも無事で。」
「また必ず会おう。」
会議室を後にした三人は、そのまま装備保管区画へ向かった。
アリアは神託剣の他に愛用の神託杖を装備し、旅用の外套を羽織る。
クレナは医療器具や神託触媒、保存食を丁寧に背負い袋へ詰めていく。
アリシアも新しく支給された白い旅装束へ袖を通し、小さな肩掛け鞄を受け取った。
「準備はいい?」
アリアが尋ねる。
「はい!」
クレナが元気よく答える。
アリシアも、今度は迷わず頷いた。
「うん。」
三人は本部の正門へ向かう。
夕暮れの首都アルテア。
黄金色の光が石畳を照らし、街には人々の穏やかな生活が流れていた。
門の前では、多くのルクス隊員たちが見送りに集まっている。
アリアは一度だけ振り返る。
ここは、自分が長年守ってきた場所。
そして、帰ってくる場所。
「行こう。」
その一言を合図に、三人は歩き始めた。
首都アルテアを後にし、新たな世界へ。
神託時代の真実を求めて。
失われた少女の記憶を取り戻すために。
そして、まだ誰も知らない運命へと。
アリア、アリシア、クレナ。
三人の旅が、静かに幕を開けた。

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