エルシア王国へ辿り着いてから、一夜が明けた。
朝日が石畳の街を淡く照らし始める頃。
繁華街の一角に立つ花屋フルール・エトワールでは、一日の始まりを告げるように店先の扉がゆっくりと開かれた。
「よーしっ!今日も一日頑張ろう!」
元気いっぱいの声を響かせながら、大きく背伸びをしたのは、この店の店主ララだった。
栗色の髪を揺らし、花の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「今日は天気もいいし、お客さんもたくさん来そう!」
そんな彼女の姿を見て、アリシアも自然と口元を緩めた。
「おはよう、ララ。」
「おはよう、アリシアちゃん!」
まだ少し眠そうに目を擦るアリシアへ、ララは太陽のような笑顔を向ける。
「今日はね、お花のお世話を教えてあげる!」
「ほんと?」
「もちろん!」
アリシアの顔が明るくなり、ララは嬉しそうに頷いた。
花を見つめるアリシアの瞳は、まるで宝石を見る子どものように輝いていた。
「よろしくお願いします。」
「うん!」
店の裏庭には、色とりどりの花々が咲き誇っていた。
赤、青、黄、白、紫。
朝露を纏った花弁は陽の光を受け、小さな宝石のようにきらめいている。
「まずはこの子たちに朝のお水をあげよう!」
ララは木製のじょうろをアリシアへ差し出した。
思ったより少し重たい。
アリシアは両手でしっかり持ち、花壇へ歩み寄る。
「優しくね。」
「優しく……」
恐る恐る水を注ぐ。
さらさらと流れ落ちる水。
土へ染み込み、花が嬉しそうに揺れた。
「わぁ……。」
アリシアは思わず声を漏らした。
「お花って、水をあげるだけでもこんなに嬉しそうなんだ……。」
「そうなの!」
ララは微笑む。
「ちゃんと応えてくれるんだよ。」
その言葉に、アリシアは、もう一度花を見つめた。
風が吹く。
花びらが小さく揺れる。
その光景を見た瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
(………あれ?)
懐かしい。
理由は分からない。
けれど、この光景を知っている気がする。
誰かと一緒に花を見ていたような。
そんな曖昧な感覚だけが胸をよぎる。
しかし、それ以上思い出そうとすると、白い靄が記憶を覆い隠した。
(また……。)
アリシアは小さく首を振る。
「どうしたの?」
ララが心配そうに覗き込む。
「あ……ううん。」
アリシアは微笑み返した。
「なんでもない。」
「そっか!」
ララはそれ以上聞かなかった。
聞かない優しさもあることを、彼女は自然に知っていた。
しばらく二人で花壇の世話を続ける。
水をあげ。
枯れた葉を取り。
雑草を抜き。
花の向きを整える。
静かな時間だった。
けれど不思議と退屈ではない。
花の香りに包まれているだけで、心が少しずつ穏やかになっていく。
その様子を店先から眺めていたアリアは、小さく微笑んだ。
「少しずつだけど、表情が柔らかくなってきたね…。」
隣ではクレナが木箱を運びながら頷く。
「そうですね、アリシアちゃん昨日よりも自然な笑顔してますね!」
「環境って大事なんだね。」
アリアは静かに呟く。
ルミナリアで目覚めてから、まだ日も浅い。
記憶を失い、不安だけを抱えていた少女。
そんなアリシアが、花を前に笑っている。
その光景だけで、この街へ来た意味があったように思えた。
その時だった。
店の前で小さな鈴の音が鳴る。
からん、と心地よい音色。
「おはよう、ララちゃん!」
「今日も綺麗なお花をお願いね!」
朝早くから、近所の常連客たちが次々と店を訪ね始める。
エルシア王国の、いつも通りの一日が始まろうとしていた。
朝の開店から一時間ほどが経つ頃には、フルール・エトワールの店先は多くの客で賑わい始めていた。
市場へ向かう主婦、仕事前に花を買い求める商人、小さな花束を抱えた旅人。
誰もが気軽に立ち寄り、ララと言葉を交わしては笑顔で店を後にしていく。
「ララちゃん、この白い花をお願い!」
「はい、おばあちゃん。今日は少し多めに入れておくね。」
「まぁ、ありがとうね。」
そんなやり取りを見ながら、アリシアは店先へ並べられた花を一輪ずつ丁寧に整えていた。
ララに教わった通り、茎の向きを揃え、花びらが一番美しく見える角度へ向ける。
「アリシアちゃん、上手!」
ララがぱっと笑う。
「最初はぎこちなかったのに、もう私より綺麗に並べてるかも。」
「そ、そんなことないよ……。」
少し照れたように笑うアリシア。
その表情をみたララは満足そうに頷いた。
「笑った顔、やっぱり可愛いね!」
「えっ……」
急にそう言われ、アリシアは耳まで赤くなる。
「も、もう…。」
慌てて俯く姿に、ララは思わず吹き出した。
「ふふっ、ごめんごめん。」
その様子を見ていた近所の女性客まで優しく笑う。
「ララちゃん、新しい店員さん?」
「うん!」
「そうなのね。よろしくね~。」
「よ、よろしくお願いします。」
ぺこりと頭を下げるアリシア。
女性は優しく微笑み返した。
「この街の人たちはみんな優しいから安心してね。」
その何気ない一言が、不安を抱えていたアリシアの胸へ静かに染み込んでいく。
知らない土地。
知らない人たち。
それでも、誰一人として彼女を拒絶しない。
それが少しだけ嬉しかった。
店の裏では、クレナが大きな木箱を抱えて歩いていた。
「よいしょ……っと。」
花の苗が入った木箱を倉庫から運び出し、店先へ並べていく。
途中、足元へ置かれた小さな植木鉢に気付くとしゃがみ込み土の乾き具合を確認した。
「少し、乾いてる…?」
じょうろで静かに水を注ぐ。
体調管理を専門とする神託術士であるクレナは、人だけではなく植物の小さな変化にもよく気が付く性格だった。
「クレナちゃん、本当に助かる!」
ララが振り返る。
「水やりまでしてくれて。」
「植物も元気じゃないと、お店も元気になりませんから。」
穏やかに微笑むクレナ。
その優しい言葉に、ララは思わず感心したように頷く。
「なんだかお花のお医者さんみたい!」
「えへへ……そう言われると少し照れちゃいます。」
クレナは頬をかきながら小さく笑った。
そんな二人の様子を見ていたアリシアも、つられるように笑みを浮かべる。
その頃、アリアは店から少し離れた広場を歩いていた。
目的は観光ではない。
この街を知ること。
人の流れ。
建物の配置。
市場の規模。
巡回する衛兵の人数。
複雑な路地の構造。
旅先では、まずは街を知る。
それがアリアの習慣だった。
(市場は想像以上に大きい……。)
露店だけでも数百はあるだろう。
食料品、衣類、装飾品、薬草、神託具、古書。
世界各国から集まった商人たちが思い思いに店を構え、異国の言葉が飛び交っている。
(本当に……世界中の人が集まっている。)
レグナリアの首都アルテアでは決して見られない光景だった。
そこには規律があり、秩序がある。
しかし、この街には自由がある。
だからこそ、多くの情報も人も自然と集まるのだろう。
アリアはそんな街並みを静かに目へ焼き付けながら、フルール・エトワールへ戻っていった。
店へ戻ると、店先では子どもたちが花を眺めていた。
「お姉ちゃん!この花かわいい!」
一人の少女がアリシアへ話しかける。
突然のことに少し驚きながらも、アリシアはしゃがみ込み、少女と同じ目線になった。
「このお花、好きなの?」
「うん!」
少女は元気よく頷く。
「お母さんにあげるの!」
その笑顔を見た瞬間、アリシアの胸がじんわりと温かくなった。
「じゃあ、このお花がいいかな。」
優しい桃色の小さな花を一本選び、少女へ手渡す。
「ありがとう!」
少女は嬉しそうに走って母親の元へ戻っていった。
その姿を見送るアリシアの表情には、いつしか自然な笑顔が浮かんでいた。
それを見たアリアは、静かに目を細める。
(昨日より、笑うようになった。)
記憶は戻っていない。
不安も消えてはいない。
それでも、こうして人と触れ合い、自然と笑えるようになったことは確かな変化だった。
その笑顔を見たララは、花束を抱えながら満足そうに微笑む。
「やっぱり笑顔が一番似合うね!アリシアちゃん!」
花の香りに包まれた少女は少し照れくさそうに笑い返した。
穏やかな時間が、優しく流れていった。
昼下がり。
フルール・エトワールの前を吹き抜ける風は、朝よりも少しだけ暖かくなっていた。
店先には相変わらず多くの客が訪ね、ララは慣れた手つきで花束を作っている。
クレナは店内で花瓶の水を替え、アリシアは新しく届いた花を並べ直していた。
「アリシアちゃん、その青い花はもう少し右かな。」
「こう……?」
「うん、その方が綺麗!」
「えへへ。」
ララに褒められ、アリシアは少し照れたように笑う。
「本当に、表情が柔らかくなりましたね。」
「そうかな?」
「はい。」
クレナは優しく頷く。
「最初に会った時は、何かに怯えているようだったもん。でも今は…」
言葉を探すように少し考え、
「安心しているように見える!」
その言葉に、アリシアは少しだけ胸へ手を当てた。
安心。
そう言われて初めて、自分の心が以前ほど強く張っていないことに気付く。
記憶は戻らない。
それでも、アリアとクレナとララがいる。
それだけで、不思議と怖くなかった。
その時だった。
店の前を、一人の男が横切る。
黒い外套。
深く被ったフード。
周囲を見渡すような鋭い視線。
一見すれば旅人にも見える。
しかし――
(……?)
アリアだけが、その男へ視線を向けた。
歩き方。
姿勢。
周囲への目配り。
どれも旅人らしくない。
何かを探すように街を観察している。
それも、一瞬ではない。
歩きながら、建物の位置や人の流れまで確認しているようだった。
(警戒してる……?)
軍人。
あるいは訓練を受けた者。
アリアは無意識にそう判断していた。
しかし男は、そのまま何事もなかったかのように人混みへ紛れていく。
「どうしたの?」
ララが不思議そうに尋ねる。
「あ……ううん。」
アリアは首を横へ振った。
「少し気になる人がいただけ。」
「エルシアは旅人も冒険者も多いからね。」
ララは苦笑する。
「変わった人なんて毎日いるよ。」
「そうかもしれないね。」
アリアも笑って返す。
だが、胸に残った違和感だけは消えない。
それは、神託術士として培ってきた経験が告げる小さな警鐘だった。
やがて夕方が近付き、市場はさらに活気を増していく。
大道芸人の笛の音。
商人たちの呼び込み。
酒場から聞こえる笑い声。
様々な音が入り混じり、この街特有の賑やかな空気を作り上げていた。
そんな喧騒の中で、アリアはもう一度だけ先ほどの男を探していた。
しかし、その姿はどこにも見当たらない。
(……考えすぎかな。)
そう自分に言い聞かせながらも、心の奥では別の声が囁く。
――本当に、それだけだろうか。
その違和感は、夕暮れと共に静かに膨らみ始めていた。
夕日がゆっくりと石造りの街並みを赤く染め始める頃、フルール・エトワールも閉店の時間を迎えていた。
「ふぅ……今日もよく働いたぁ。」
ララは大きく背伸びをしながら店の看板を裏返す。
店先に並んでいた花々は店内へ運び込まれ、昼間の賑わいは嘘のように静かになっていた。
「ララちゃん、お疲れ様!」
クレナが花瓶を抱えながら微笑む。
「今日は本当に助かったよ~」
「いえいえ、私も楽しかったよ~。」
アリシアも小さく頷いた。
「お花屋さんって、こんなに忙しいんだね。」
「季節によってもっと忙しくなるよ。」
ララは笑いながら答える。
「でも私はこの時間が一番好き。」
そう言って店の扉を閉めると、外へ目を向けた。
夕暮れだった街は、いつの間にか夜の顔へ変わり始めている。
建物の軒先には次々とランタンが灯され、石畳は暖かな橙色の光に包まれていた。
酒場からは陽気な演奏が聞こえ、人々の笑い声が通りへ溢れ出す。
旅芸人は楽器を奏で、吟遊詩人は英雄譚を歌い始める。
昼とはまるで別の街。
これもまた、エルシア王国だった。
「夜はやっぱり賑やかだね…」
アリシアは目を輝かせる。
その時。
遠くの路地裏で、一瞬だけ黒い外套が揺れた。
アリアだけがそれを見逃さなかった。
昼間見た男と、同じ色。
同じ歩き方。
その男は一度だけこちらを振り返ると、人混みの奥へ消えていく。
アリアの瞳が鋭く細められる。
(……見つけた。)
しかし今は追わない。
ここで動けば、相手も警戒する。
まずは情報。
この街を知ることが先決だった。
「ララ。」
アリアは静かに口を開く。
「もう少しだけ、この街のことを教えて欲しい。」
ララは力強く頷いた。
「もちろん。」
「私に分かることなら何でも話すよ!」
その言葉にアリアは静かに微笑む。
「ありがとう。」
だがその胸の内では、一つの決意が固まり始めていた。
(明日から本格的に調べよう。)
(あの男たちが何者なのか。)
(そして、この街で何を探しているのか。)
夜風がランタンの炎を小さく揺らす。
誰にも気づかれることなく、一つの影が屋根の上からフルール・エトワールを静かに見下ろしていた。
その視線の先は――
アリア。
アリシア。
クレナ。
三人の姿。
影は無言のまま小型端末を取り出すと、淡く青白い光を灯す。
そして、どこか短い報告だけを送信した。
「対象を確認。」
「予定通り、監視を継続する。」
夜の喧騒は、その小さな電子音さえも飲み込んでいく。
三人はまだ知らない。
自分たちの行動が、すでに誰かに見られていることを。
そして、その影が静かに交差し始めていることを。
夜も更け、フルール・エトワールには静かな寝息だけが響いていた。
アリシアとクレナは二階の客室で眠りにつき、ララも一日の疲れから深い眠りへ落ちている。
しかし、一人だけ目を閉じられない者がいた。
アリアだった。
(昼間のあの男……。)
胸の奥に引っ掛かった違和感が、どうしても消えない。
レグナリアの神託術士として数えきれない任務をこなしてきた経験が、小さな異変を見逃すなと警鐘を鳴らしていた。
「少しだけ、街を見てくるね。」
眠る二人を起こさぬよう、石畳を優しく撫でていく。
昼間は花や果物を売る声で溢れていた大通りも、今ではまったく違う顔を見せていた。
酒場から漏れる賑やかな笑い声。
ジョッキがぶつかる乾いた音。
旅芸人の奏でる陽気な音楽。
酔った商人の笑い声。
路上には昼間よりもさらに多くの人々が行き交っている。
しかし、その顔ぶれは昼とは大きく異なっていた。
剣を腰へ提げた傭兵。
革鎧を身に纏った冒険者。
黒いローブの神託術士。
顔を隠した情報屋らしき人物。
そして、いかにも裏社会の住人と思われる男たち。
表通りは賑やかで明るい。
だが一本路地裏へ入れば、その雰囲気は一変する。
細く入り組んだ石畳。
壁に寄り掛かり煙草を吸う男。
誰かを待つように酒場の影へ立つ女。
視線だけで取引が成立しているよな、どこか張り詰めた空気。
(これが……夜のエルシア。)
昨日ララから聞いた話は決して大袈裟ではなかった。
この国では、金だけではない。
情報もまた一つの商品なのだ。
だからこそ、誰もが何かを隠し、誰もが何かを探している。
そんな街だった。
アリアは自然な足取りで路地を歩きながら周囲を警戒する。
すると、その時だった。
視界の先を、一人の男が横切る。
黒い外套。
深く被ったフード。
昼間見掛けた男と同じ服装だった。
(いた………。)
アリアは反射的に建物の陰へ身を隠す。
男は周囲を一度だけ見回すと、人混みから離れ、人気の少ない路地裏へ入っていく。
(やっぱり何かある。)
距離を保ちながら静かに尾行を開始する。
男の足取りは一定だった。
迷いがない。
まるで目的地が決まっているかのように、複雑な裏路地を進んでいく。
数分後。
男は袋小路のような狭い路地で立ち止まった。
周囲を確認し、懐から見慣れない薄い板状の装置を取り出す。
(あれは……。)
神託端末ではない。
レグナリアの通信装置とも違う。
薄い金属板の表面へ青白い光が浮かび上がる。
男が何かに触れるたび、幾何学模様が高速で変化していた。
(神託具……?)
いや、違う。
アリアが知るどの技術とも一致しない。
男は低い声で話し始めた。
「……第三区画の探索は終了。」
「対象区域におけるオラクル反応は想定値以下。」
「位相補正値を再演算し、第二探索計画へ移行する。」
聞き慣れない言葉ばかりだった。
オラクル反応。
位相補正。
再演算。
どれも神託術とは思えない。
まるで研究者同士の専門用語を聞いているようだった。
さらに男は続ける。
「遺物の回収率は50%。」
「現地適応プログラムは問題なし。」
「引き続き情報収集を継続する。」
(……何を言っているの。)
アリアは眉をひそめる。
遺物という単語だけは理解できた。
だが、それ以外は意味が分からない。
神託術士が使う言葉ではない。
ましてやエルシアの者とも思えなかった。
その時。
端末から微かに別の声が漏れる。
「……ルーティー。」
アリアの耳がぴくりと動く。
(ルーティー……?)
男の名前だろうか。
それともコードネーム。
男は静かに返事をする。
「了解しました。」
「監視対象については引き続き観察を行います。」
「次回報告は予定時刻通り。」
通信が切れる。
青白い光が消え、端末は静かに閉じられた。
ルーティーは再び歩き始める。
アリアは呼吸を整え、再び尾行を開始した。
しかし彼女はまだ知らない。
自分が追っているつもりのその男が――。
ほんの数分前から。
すでに自分の存在に気付いていることを。
夜の闇に紛れ、二つの影は静かに交差し始めていた。
ルーティーは通信端末を静かに閉じると、小さく息を吐いた。
人気のない裏路地。
夜風だけが石畳を撫でている。
先ほどまで尾行していた少女アリアは、建物の陰へ身を潜めたまま慎重に様子を窺っていた。
その気配は、もちろんルーティーも把握している。
(…尾行の技術は悪くない。)
心の中でそう評価する。
距離の取り方。
視線の切り方。
足音の消し方。
どれも素人ではない。
おそらく軍、あるいは騎士団で正式な訓練を受けている。
だが――。
(まだ甘い。)
この程度なら、ASTERIONで受ける潜入監視訓練の初歩にも及ばない。
ルーティーは気づかぬふりをしたまま歩き出す。
相手に見つかっていないと思わせることも任務の一つだった。
再び端末にへ触れる。
薄い光が静かに浮かび上がる。
画面には暗号化通信の文字列が高速で流れ、やがて一つの通信回線が確立された。
表示された送信先。
ノヴァリス連邦中央特殊観測研究所ASTERION。
地下最深部。
Project:Genesis 管制区画。
数秒後。
画面へ一人の男の姿が映し出される。
黒髪。
銀縁眼鏡。
整った白衣。
感情をほとんど表に出さない穏やかな表情。
Project:Genesis 責任者。
第零封印区画統括主任研究員。
エーヴェル。
「報告します。」
ルーティーは短く頭を下げた。
「対象を確認しました。」
静かな声。
エーヴェルは一つだけ頷く。
「そうですか。」
その声はどこまでも落ち着いていた。
「予定通りですね。」
「はい。」
ルーティーは端末へ視線を落としながら続ける。
「対象はレグナリア所属と思われる神託術士二名。」
「現在エルシア王国に滞在中。」
エーヴェルは表情一つ変えない。
「レイアへの影響は。」
「確認されていません。」
「精神状態も安定。」
「生体反応に変化なし。」
静かな沈黙。
研究室では複数の研究員がモニターを見守っている。
誰も口を挟まない。
Project:Genesisにおいて、エーヴェルの判断は絶対だった。
数秒後。
エーヴェルは静かに告げる。
「引き続き監視を継続してください。」
「接触は不要です。」
「現段階では観察を優先します。」
「了解しました。」
ルーティーは即座に返答する。
「それと。」
エーヴェルが僅かに視線を横へ向けた。
「決して刺激しないように。」
「対象も。」
「レイアも。」
その言葉には、研究者というより保護者のような響きがあった。
「承知しました。」
通信が切れる。
青白い光は静かに消え、端末は再び一枚の金属版へ戻った。
ルーティーは夜空を見上げる。
「……レグナリア。」
「面白い。」
小さく呟き、再び人混みへ姿を消した。
一方その頃。
ノヴァリス連邦中央特殊観測研究所ASTERION。
地下最深部、第零封印区画。
無数の白い照明が静かに通路を照らしている。
機械の駆動音だけが一定のリズムで響き、研究員たちは夜であることも忘れたように作業を続けていた。
エーヴェルは通信端末を閉じると、ゆっくりと窓際へ歩く。
その先には、一人の少女が立っていた。
長く宝石のように綺麗な長い髪。
漆黒の衣装。
儚げな横顔。
レイアだった。
大きな強化ガラス越しに、彼女はただ夜空を見つめている。
「眠れませんか?」
レイアはゆっくりと振り返った。
「……眠く、ない。」
それでも目覚めたばかりの頃より、言葉は確実に増えていた。
「外が気になりますか。」
少女は窓の向こうへ視線を戻す。
「うん……。」
しばらく黙っていたが、不意にぽつりと呟いた。
「ねぇ……エーヴェル。」
「はい。」
「どこかで……」
レイアはそっとい胸へ手を当てる。
「誰かが……私を呼んでる。」
その一言に、エーヴェルはわずかに目を見開いた。
「呼んでいる……ですか。」
「うん。」
「声は聞こえない。」
「でも。」
少女は遠くを見つめる。
「悲しい。」
「苦しい。」
「でも……」
一瞬だけ優しく微笑んだ。
「会いたい。」
その言葉の意味を、レイア自身も理解できていなかった。
それは記憶ではない。
夢でもない。
もっと深い場所でつながる、説明のつかない感覚。
遥か遠く――
レグナリアの首都アルテアから旅を続ける、一人の少女。
アリシア。
二人の存在は、まだ互いを知らない。
それでも魂のどこかで、静かに共鳴し始めていた。
エーヴェルはレイアの横顔を見つめ、小さく呟く。
「……まだ、その時ではありません。」
その言葉はレイアへ向けたものだったのか。
それとも、自らへ言い聞かせたものだったのか。
誰にも分からない。
夜空には一筋の流れ星が静かに流れていく。
同じ夜空の下で。
二人の少女は、それぞれ異なる場所から同じ空を見上げていた。

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